Acerca de
零落ノ華
小説:つくも轍
慶応四年 四月
宿屋の一室に寝かされた土方は憎らしげに天井を仰ぎ見る。
毎度のことながら足を引っ張るのは脆弱だったこの体で、城攻めの時にも、
急に喉が詰まったかと思えば、むせる直前、見事に脚を撃たれてしまった。
医者によれば傷はそれほどでもないようだが、それからというもの、
全身を取り巻く妙な熱っぽさが、正常な意識を阻害する。
──お前のせいだ。
──お前が殺した。
──お前が死ぬべきだったのに。
──お前は、どうして生きている。
真っ黒い顔をした死人の呪いが全身を麻痺させ、
頭に恐怖を植え付ける。
走馬燈のような『後悔』の記憶が、
濁流のように押し寄せる。
──どうして。どうして。どうして。どうして。
あの日殺した死人の群れが、枕元に立っている。
息が乱れる。心臓が速くて、止まらなくて、
胸が痛くて、思い出す。
何度も。何度も。何度も。何度も。
忘れていた筈の傷が痛くて、情けなくて、
張り裂けそうな気持ちのまんま、
あの日の記憶を、思い出す。
芹沢を殺したあの日の夜を。
山南を殺したあの日の夜を。
伊東を殺したあの日の夜を。
すべてを、すべて思い出せば、
最後の最後に『記憶の呪詛』は、
〝あの人〟の顔で締めくくる。
── なあ、頼むから俺を解放してくれよ、トシ。
「────!」
思わず、ガッと手をやれば、そこには黒い男が立っていて。
握られた布の固い感触を辿りながら、酷い夢から目が覚めた。
「……斎藤」
咄嗟に呼んだその名前は、今はその男の名前じゃない。
しかし、男はほっと息をつきながら、握っていた手を大事そうに包みこむ。
あの時よりも随分と〝さっぱり〟したけれど。
あくまで男は、土方が呼んだその名前の、記憶の中の男であろうとへらりと笑う。
「……、はい。新選組三番隊隊長、斎藤一。
あんたの、一ちゃんですよ」
──そう、これもまた、馬鹿げた夢の一部なのだと。
記憶の中でいつも笑っていたあの男はもういない。それなのに、
この男は土方が呼んだ男に化けて、捨て去った名前を受け入れた。
目の前にいるのは、土方の代わりに軍を率いている男じゃない。
言うなれば、土方の病熱に降って湧いて出た亡霊の一部だ。
「どうです、少しは楽になりました?」
「……ああ」
「夕餉は、喉を通りましたか?」
「…………」
土方はそっと、胸の辺りに手を添えると、むっすりとして、布団を引っ張って顔を埋める。
……口の中が、厭に渇いてしょうがない。少しでも開けば、すべてが緩んでしまいそうで、
「なんでもねぇ」と、擦れた声で土方は言った。
「まあ、あと数ヶ月は安静ってことですから、今はごゆるりと、僕らに任せて休んでください」
そう言って、『斎藤』が布団の上から肩を叩くと、底冷えしたような、酷い寒気が土方を襲う。
(冗談じゃねえ)
土方にとって、〝動かざる〟とは死に等しい。
それを数日どころか、数ヶ月もとなると、傷ついた足元から根腐れするような気分になる。
「俺を、……殺す気か」
「いやいや。これも副長を思ってのことですって。……第一、歩けもしねぇのに、
どうやって戦線立つつもりですか」
「指揮はできるだろ」
「指揮以外もするでしょ、あんたは!
……ったく、副長に何かあって、真っ先に怒られるのは僕なんですから。ちょっとは労ってくださいよ」
斎藤の手が、肩から背中へそろりと触れる。まるで腫れ物のような扱いに土方はじとりと睨めつけると、
斎藤は気にせず、片親のような、どこか湿っぽい笑みを浮かべた。
「斎藤……」
背中を撫ぜられる心地よさに、少しずつ、意識がまどろみに帰っていく。
……そういえば、近藤さんはどうしているだろう。
夢の中で、最後に現れる怨念の声。
手紙を託した相馬と、投降を供にした野村が先日会津に到着したとは聞いているが……
「斎藤」
「はいはい」
「野村は、どうしてる……?」
「────、」
野村、と聞いて、斎藤は言いにくそうに顔を伏せる。
「……っあー、そういやぁ合流したんでしたっけ。やだなー、次郎ちゃんてば隊長代理なのに。
全然気づかなかったわー」
「なに?」
「いやホントよ、ホント。さてと、そろそろ軍議の時間なんで、僕はこれで、」
「はぁ? 何を隠してやがる、おい、斎藤ォ!」
必死に手を伸ばすもむなしく、斎藤は土方の手を退けたまま、後ろ手で襖を閉めてしまう。残された土方はしばらく声を張り上げていたが、やがては病熱が頭にまわり、客間の奥は静かになった。
(……言えるわけねぇだろ)
客間の近くで佇んでいた斎藤は拳を握ると、奥歯を噛みしめ、ぶつけようのない、やり場のない怒りに足が震える。
──確かに斎藤は、それらの『事実』を知っていた。
伝令を受け、更には一部の隊士と、会津藩から直々に『任』を引き受け、宇都宮の部隊と会津で合流するまでに、戦線から京都の方まで馬を駆った。
それは、手紙を授かっていた相馬主計と処刑を免れた野村利三郎によって密かに伝えられた情報だったが、
斎藤は『それ』を引き受けたのち、手にしたものを寺に隠した。
(いずれ副長の耳にも届くでしょうが)
──きっと、この人が知ったら壊れてしまう。
そう思って、斎藤を含める『それら』に関わる隊士達は、誰も土方に本当の事実を伝えなかった。
(どうにか墓を作るときに埋めてしまえば…………)
そう思いつつも、斎藤は苦痛の表情のまま、客間を離れようとした、その時。
「────……、」
襖の奥で、土方が何かを言いかけた。
熱によるうわ言のようだが、土方の声はいつになく泣きそうな声で、しきりに『誰か』を呼んでいる。
「……さん……すまねぇ、……」
斎藤は客間の襖にもたれ掛かり、黙って耳を傾ける。
──あの人が求めるヒトなんて、一人しかいない。
ゴクリ、と大量に溢れた唾を呑み、手や額の汗を拭う。
何を焦る必要がある? 所詮は夢だろう、あの人はまだ……
そう思って、少しだけ襖を開けると、次の瞬間、斎藤は勢いよく襖をこじ開け、寝床の男に飛び掛かる勢いで敷布の上から覆いかぶさった。
「……っ、斎、と……⁉」
突然の〝襲来〟に土方は思わず目を丸くしたが、とかく言われる前に、
斎藤の逞しい体が土方の細身を隠してしまう。
「すいません、急に降り出したものですから」
土方は一瞬、何を言っているのか分からなかったが、ぽたりと伝う、
大粒の雨の温かさに思い至って瞬きをする。
「……雨、か」
「はい。……濡れたあんたが、熱でも出して臥せっていないか心配で」
どういうわけか、妙な言い回しをする斎藤に土方はくすりと笑いかけると、斎藤は口を噤んで、
被さった掛布を下にずらす。
「……なぁ、あんた、助命懇願の際、幕府の連中に何された」
「…………っ」
土方は眉を顰めつつも、すっ、と下方に視線を逸らす。
掛布の下には肉付きのない巨躯が横たわり、乱れた合わせ目から見える胸元は左肩を抑えるように、
白い帯が巻かれている。
──できれば、そのまま黙り込むつもりだったが。
斎藤はそれを見透かしたように顔を近づけ、睨むものだから、土方はとうとう困ったように腕を回して、
母のような笑みを浮かべた。
「失望したか?」
「……いや。むしろ安心しましたよ。あんたも人の子なんだってね」
「フン、〝鬼の目にも涙〟……ってか。笑えねぇ冗談だ」
土方の目尻に溜まった雫が、頬を伝って枕に落ちる。
本当に、この人は。
斎藤は土方の体をゆっくりと抱きしめ、傷を避けながらも、腕の中へと包み込む。
温かい……深手を負い、発熱した体は相変わらずに青白いが、その身に通った血の温もりがあるだけで、斎藤は少し泣きそうになる。会津に搬送されてからというもの、彼が生きているということがこんなにも、……新選組にとって、一筋の希望のように思える。
「副長……」
両手で頬を包み込み、うなじから頬を撫でて涙を拭えば、見上げる土方の瞳に斎藤が映る。その、美しい造形に見惚れるがままに。斎藤はその唇に、自分のをそっと押しつけた。